[ 貴賤を問わないお茶 ]
いろいろな会合やパーティにしても、たいていは着座位置が決まっています。そして、その位置が決められる要素として大きいの社会的地位であるようです。
それも、会社での役職が上の方というのが一般的で、会社で偉ければ、どういう社会でも偉いということになるのでしょう。
しかし、茶室での着座位置はそういうものでは決まりません。茶室では、どういう人であれ、学歴や社会的地位などをもってして、上下の関係を云々することは許されません。
一旦、茶室に入れは、そこは世俗とは違う別の世界なのです。あるのはただ、亭主と客の間の純粋な心のやりとりなのです。
そういう意味からすれば、茶道は趣味や娯楽といったものとは一線を画すといっても過言ではないでしょう。
とはいえ、茶道具をはじめとする茶事の演出に必要なものに対する趣味などはあって然るべきで、それがまた茶道の楽しさのひとつでもあるのです。
単なる趣味や娯楽とは違うといっても、歴史的な視点から見れば、お茶は事実、遊びであったり、趣味に重きが置かれたり、飲料としてのお茶よりも、薬としてのお茶であったりしました。
利休に至って、それまで受け継がれてきた茶の道が完成し、茶の湯に精神的な深いふくみが持たされたわけで、この精神性こそが、趣味や娯楽を越えたものであるのです。利休にしてみれば、豪華好みの桃山文化の中で、権勢に対する批判もあったのでしょう。
貴賤を問わず、ただ自然に生きることのために、利休は死をもってそれを手にしたと言えるでしょう。