お茶・・わたくし・・現代

『南方録』って、何?

 

「宗易ある時、集雲庵にて茶湯物語ありしに……

 というのが、『南方録』の書き出しです。

 

 「宗易」とは利休、「集雲庵」とは堺の禅寺の一庵(臨済宗大徳寺派南宗寺の塔頭)です。

 

 

『南方録』という茶書は、利休に心服する庵主が、利休の語るところを丹念に書きとめたという由来のものです。

 

 「聞き書き」とはいっても、放談ではなく、問いは利休と茶への探い敬愛から発しており、答える利休の「茶湯物語」は深い思索と明快な例証に満ちています。

 

  幼い時から茶人祖母のひざ元でお茶に親しんだわたくしは、長じてこの書に出合いました。

 

 英国への美術留学から帰って美術家への道を夢想していたわたくしを、この書はグイと、ふたたびお茶に向けたのでした。「そうだ、この書に従ってお茶をやろう……

 これが、わたくしと南坊流との出合いでした。

 

 『南方録』全7巻に底流する「カネワリ」という思想があります。

 「カネ」は「規矩」と書かれ、畳や敷板を、3つや5つや7つに割る寸法・尺度・規準(スタンダード)です。この「カネ」が、あらゆる茶席における人・もの(道具)・動きのすべての位 置を定める、見えぬ指標です。

 

  たとえば、水差しと炉の15寸に満たぬ間に茶入れ・茶杓・茶筅を置きたいと願う時、わたくしに2点を結ぶ一本の斜線と線上に、いくつかの点が見えてきます。

 茶入れはこの点に、茶筅はここに……わたくしはその時、見えぬ 利休の指がさし示しているように思い、それに従います。

 

  もの(道具)たちは所を得て、落ち着き、つぎの手を待ちます。

  なんて適切で美しい配置でしょう。いいえ、正確に寸法採りされているから美しいのではありません。「カネ」は、古来の陰陽五説から導かれた規矩ですが、歴史に由来しながらそれを「美しい配置」に洗練したのは、利休の美意識でした。

 それは、もうひとつの美しい「黄金分割」です。

 

  つい先日のことです、古い知人が「夜咄」の茶事をなさいました。

 「夜咄」とは、文字どおり薄暮の露地(お庭)をゆれる灯火に導かれて席入りしてから、懐石・ご酒・濃茶・薄茶のいわばフルコースをろうそくの明かりだけでいただくお茶会です。

 

 蹲いに日頃の冷水に加えて湯桶が置かれているのがご亭主のお心づかいなら、お料理を盛った大鉢の赤絵が目にしむほど美しいのも手燭の明かりだからです。

 

 「夜咄をしてみたい」と、彼女がもらしたのは1年前のことです。それから一年、彼女は、お道具組みについて、お料理について、お招きするお客について、いろいろ思い悩んだはずです。

 

 その思いのたけがこの夜の数刻に凝縮していました。どうおもてなししようか・・・という彼女の一途さがこの夜をつらぬ いていました。

 

  お茶は形式だと思われがちですが、違います。かたちは、こころの凝縮です。

 

 ただ一服のお茶をさしあげる時だって、そうです。

 お点前とは、手順ではなく、凝縮したこころの表われであり、そこにあるのは人と人のコミュニケーションの原形です。

  現代人はそのことを忘れていますが、お茶はそのことを思い出させてくれます。

  つい先日のことです、古い知人が「夜咄」の茶事をなさいました。

 「夜咄」とは、文字どおり薄暮の露地(お庭)をゆれる灯火に導かれて席入りしてから、懐石・ご酒・濃茶・薄茶のいわばフルコースをろうそくの明かりだけでいただくお茶会です。

 

 蹲いに日頃の冷水に加えて湯桶が置かれているのがご亭主のお心づかいなら、お料理を盛った大鉢の赤絵が目にしむほど美しいのも手燭の明かりだからです。

 

 「夜咄をしてみたい」と、彼女がもらしたのは1年前のことです。それから一年、彼女は、お道具組みについて、お料理について、お招きするお客について、いろいろ思い悩んだはずです。

 

 その思いのたけがこの夜の数刻に凝縮していました。どうおもてなししようか・・・という彼女の一途さがこの夜をつらぬ いていました。

 

  お茶は形式だと思われがちですが、違います。かたちは、こころの凝縮です。

 

 ただ一服のお茶をさしあげる時だって、そうです。

 お点前とは、手順ではなく、凝縮したこころの表われであり、そこにあるのは人と人のコミュニケーションの原形です。

  現代人はそのことを忘れていますが、お茶はそのことを思い出させてくれます。

 

 

  ヨーロッパで、シンメトリー(対林)の美しい庭園をたくさん見ました。

 日本の庭園は、かならずシンメトリーをこわしています。それは破調の秩序であり、お茶の全空間を支配しているのもそれです。

 

  お茶のお稽古は、この破調の美しさを感じとり、それに身を寄せていくことです。決して手順を覚えることではないと、わたくしは思っています。

 

 こんなことを言ったら、みなさま敬遠なさるでしょうか。

 違います。あなたさまはすでに、朝起きて、あるいはお酒やお食事のあとにいっぱいのお茶を飲んでおられます。

 

 もう一歩進めて、思い出してください。英国の紅茶、フランスのカフェオレ、ロシアンティーとサモワール……民族と歴史はみんな、美しくおいしいお茶の飲み方を持っています。

 では、わたくしたちは、お抹茶を一服いただきましょう。

 

  静かな時が流れます。湯がたぎつて鳴る釜は一勺の水を差すと静まります。

点ったお茶は、日常の何倍かのどにおいしく感じら れ、こころにしみます。

  アスファルトジャングルとビル風の中の「現代」に、わたくしは一碗のお茶をそなえたいとおもいます。それは、歴史と芙に身にゆだねて憩う時間です。

 

 

初出:アル スール2001年春号(日本信販発行)