薬用からはじまった茶は、闘茶の時代を経て書院の茶を形成し、その膝下(しっか)から流れ出た詫び茶という細流がやがて主流となって近現代に至ります。
簡明に言おうとすると、この要約が、私の茶史認識ですが、乱暴過ぎるでしょうか、単純過ぎるでしょうか。
聞香(もんこう)や歌会(合戦)と同じように、ひとと勝敗を競う闘茶はなかなか刺戟的だったでしょう。しかし、景品や賭が歯止めを失い乱脈に陥った時、それは婆娑羅(ばさら)の遊興となりました。
書院の茶は、闘茶の乱脈を匡(ただ)して端正になったけれども、こんどは道具の唐物至上と装飾過多(文具・楽器の棚飾りなど)に陥りました。
こう考えてくると、遊興を排し装飾を削(そ)いで精神性を求める「詫び茶」の浮上は、必然でした。
利休の生と死がこの流れを決定づけます。同時期、茶葉の量産が可能となり、普及した、という動機があったことも確かでしょう。
近現代では、明治維新と太平洋戦争が激震でした。
その余波とあたらしい社会風潮(民主化・大衆化)の中から組織化に成功した千家の茶が改めて主流となりました。
そして、財閥(ざいばつ)解体で数寄者の世界は終り、茶は大衆のものとなりました。
もちろん「大衆化」と言っても、限られた階層です。そして、大衆化現象とは、いつの時代どんな分野においても、普及と俗化という両面をはらんでいるものではないでしょうか。